赤シャツの感想を書いてたら鬼長くなってしまったので、一度全部消して箇条書きしてみた。
箇条書きでも長くなった。
⚠️以下、赤シャツネタバレ祭⚠️
■率直な感想
・赤シャツのバリエーションが色々あって可愛かった。襟だけ白かったり。
・合わせてる背広が、冒頭は麻っぽい素材でアイボリー(残暑)、後ろの方はブラウン(秋)て感じで、めちゃくちゃ似合ってた。
・その上たった1ヶ月ちょっとのお話なんだけど季節の変わり目を感じさせるコーディネートで最高だった。
・てか上演時期とぴったり合ってるのか、今気づいた。
・蝶ネクタイ似合う。着せたくなるのわかる。
・浴衣の下にも赤シャツ着るんかい。徹底しとるな。
・浴衣の下は書生さんみたいなスタンドカラーの赤シャツなのね。
・野だいこ吉川先生の軽妙なセリフ運びがたまらん!あまりに流麗でどこで息継ぎしてるのかわからない。口が脳を追い越してそう。
・うらなりかわいい。
・マドンナさんの溌剌とした感じがすてき!座ったあとの袖の始末とか、所作も美しかった。
・ウシさんの「ぞなもし」がクセになるぞなもし。
・高橋ひとみさんの艶っぽくて美しいところが全然なくて(いい意味)ウシさんだった。
・うらなりかわいい。
・「慕われるのは閉口するが嫌われるのはもっと嫌」な赤シャツメンタリティわかりすぎてつらい。
・自分も少し前まで「嫌いなやつにまで嫌われたかない」という気持ちで生きていたので。
・「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」坊っちゃんと、「親譲りの八方美人で子供の時から苦労ばかりしている」赤シャツが正反対な人物として描かれてるだけでなく、【清⇔ウシ】【坊っちゃんの兄⇔赤シャツ】【坊っちゃん⇔武右衛門】と、同じ位置に属する人物として対比させることで、原作『坊っちゃん』の読み方も豊かになるところがすごい。『坊っちゃん』には清が坊っちゃん以外の者と話す描写すらなかったと思うが、ウシを通して想像することができる。清が坊っちゃんに依怙贔屓しすぎてて忘れてたけど、兄のことももちろん世話してたわけで……坊っちゃんに対しては、兄は立派にはならないと言っていたけど、兄と清の本当のやり取りはわからない。赤シャツとウシのような関係が、実際はあったかもしれない。親の遺産を整理して坊っちゃんに六百円渡したきり会っていない兄も、赤シャツが武右衛門に対してそうであるように、弟への不器用な愛情を秘めていたように思う。
・武右衛門くん伸び伸びやっていて良かった。
・武右衛門くん遊んでる。(公演2日目の時点で割と)余裕あるな。
・武右衛門がしっかり反抗しないと赤シャツ側も押さえつけられないので、ちゃんと歯向かってて良かった。
・来年、陸軍幼年学校を受けたいということは、武右衛門くんは中学4年生なんだろうか?(旧制中学校は五年制)と思ったけど、陸軍幼年学校は満13歳~15歳の少年たちが入るところらしい。中学卒業してなくていいのか。であれば14〜15歳くらい?当時は数え年だとしたら実質13〜14歳かな。それにしては随分弁が立つなぁ。血は争えないわねぇ。
・赤シャツと武右衛門が同時に上下にはけていくところ、決裂した兄弟仲が視覚化されていてよかった。タイミングもスピードもビタビタにシンメトリーでさすがのステージング。
・2階から見たら、セットの床に一部線が入ってるところがあった。畳を表現しているのかもしれないけど、畳のヘリを踏んでるようにも見えてしまったので無い方がいいなぁと思った。1階席からだと一切見えないので気にならなかった。小うるさくて申し訳ない気持ち。
・黒猫の掛け軸に「漱石子」のサイン
・近い席だと畳をつかむような、ひっかくような音とか、静かな呼吸とかまで聞こえた。そこにいる……。
・滑舌と声の通りの良さが無ければ赤シャツという役は成立しなかったかも。
・マドンナに迫られるところ、ついオペラグラスをスチャ、としてしまい恥ずかしかった。
・小鈴さん大好き!所作も美しいし、艶っぽさと可憐さのバランスが絶妙で、上品なのに親しみも持てる。なんだろう?しっかり芸者さんなのに商売女感がしないのは。そりゃ惚れちゃうよ。声も素敵で、高すぎず低すぎず、細すぎず太すぎない不思議な魅力。宝塚以外の舞台初って嘘でしょ?角屋のシーン、お兄さんの話をしてるところは伏し目がちだったから気づかなかったけど、はけていくときに涙の跡に気づいてトクン
・角屋の番頭さん、肩肘張らない柔らかい振る舞い、さすがです。へーこらしつつちゃっかりしてて。
・ピロシキを見るとカレーパン食べたくなる。
・「巨人引力」の引用は、巨人引力に呼ばれるままに落ちていくボールのように、ありのまま、流されるまま生きたいという気持ちなのか?という勝手な解釈。
・赤シャツ紋付袴めちゃ似合う。
・徴兵忌避の話も紋付袴のまましないといけなくて情けなさ倍増きつー
・やっぱりおかやまさん大好きー。校長お腹ぽんぽこしててかわゆ。
・校長と武右衛門ちゃんのやり取りで、聡ちゃん謎の動きしてたの良かったなぁ。うまく説明できないけどとにかくその瞬間はキレキレだった。
・校長室での巨人引力のくだりは、なんだか怖かった。赤シャツの考えてることが理解しきれなくなり、一連のことは結局誤解ではなく、赤シャツの策略だったのか?と思ったりもする。解釈が広がる不思議なシーン。
・前の方で見たときは赤シャツが畳を掴む、ひっかくような音とか、細かい息の音も聞こえて震えた。
・1回目見たときは男らしくなりたいなぁ……で泣いた。
・3回目のときは、男らしくなりたいなぁ……のセリフの後、次のセリフを言う前に体、手、呼吸が震えてた赤シャツに泣いてしまった。けど肝心のセリフが思い出せない。。しかも戯曲にも書いてなかった。ミステリー。
・ボロボロの赤シャツSexy
・髪が乱れると若返る不思議
・愛しい背中
・小鈴のこと泣かしたらあたしが許さない。
・20世紀は坊っちゃんや山嵐のような人が生きにくい世の中になると言ってたけど、赤シャツのような人は19世紀でも21世紀でも生きにくいだろと思った。だからそんなに未来を悲観しないで。
・赤シャツが彼らに憧れる気持ちはわかるけど、結局のところ、誰も彼も自分以外の人生は生きられないっていう話に感じた。なので男らしいとかどうとかごちゃごちゃ言ってはいるけど、実のところ今作は多様性の物語なんじゃなかろうか。あるがままを生きるしかないし、それでいいんだよと言われたような気がした。
・天木先生が遊女を足抜けさせたということは、中学校教師の給金じゃ身請けは無理ってことか。ならもし赤シャツが小鈴を身請けするとなったら一体いくらくらいかかるのか気になる。教頭ならいけるのか?
・ラストシーン、赤シャツの目に光るものが
・カーテンコールの振る舞いはまさに当世流円滑紳士
・なので靴下くらい履かせてあげたかった
■観たあとの変化
・赤シャツ観てから、少しだけ、いい意味で諦めがよくなった気がする。特に仕事の上で。全員が100%幸せになる道なんてそうそうないんだから、変にこねくり回す前に諦めるようと思える。
・ただ、ツイッターで毎回観劇報告をしなかったのは、多ステしてるのをフォロワーさんたちはどう思うんだろう?という気持ちから抜け出せなかったから。FCでは当たらなかったけど良い方に譲っていただきましたもちろん定価で。
・結論。人はそうそう変われるもんじゃない。
■おまけ(2002年 第46回岸田國士戯曲賞選評を読んで)
色々調べる過程で、掲題のページに行き当たった。『赤シャツ』は受賞を逃しているが、選評が気になったので紹介してみる。ちなみにこの年は該当作品なし。
□岩松了氏選評(抜粋)
どうしても赤シャツが坊ちゃんや山嵐の生き方を「あんな風に生きることが出来たら」と思う根拠が納得出来なかった。その対立が描かれていないと思ったのだ。ということは、やはり原作で描かれている対立によりかかっていて、マキノ氏自身が「あんな風に生きることが出来たら」ということに対する執着もないまま、この作品を産みおとしてしまっているように感じた。(中略)早い話が、赤シャツのような生き方のどこが悪いの? それ悩む必要ある? と言いたくなるのだ。
なるほど……でも、はたから見たら悪く思えないこと、悩む必要のなさそうなことを悩むのが人間じゃん!と反論したくなるな。単純や真率が笑われる世の中になっていくのを憂いながらも、自分を変えることはできず、変えるつもりもないんじゃなかろうか。そういう人の生き方を、ちょっと覗いてみるだけでおもしろい。というのがこの作品なのかと思う。岩松さんのことは好きです。
□野田秀樹氏選評(抜粋)
この戯曲は、その誤解を作品の中で消化するものでなく、誰もが坊っちゃんを読んでいるという前提で作られています。すなわち、この戯曲が取り扱っている「誤解」は、日本人なら誰もが知っている小説の「誤読」と言った形での誤解です。問題は、このように誤読しなければならない「作家の理由」が見あたらないことなのです。だから何故、野だいこは、野だいこのままで、赤シャツだけが、弁護されるような誤読の意味があるのだろうと考えさせられます。それは、徴兵拒否なのだろうか、弱い男ということなのだろうか、作品の中では最後に「今時古賀君や堀田君や坊っちゃん先生のような人間は珍しくてなかなか代わりが見あたらないが、僕のような当世流円滑紳士などはなどは、その気になればいくらでも代わりがいるということなのだろう……」と説明はしているが、腑に落ちない。明らかにつけたしのようだ。
なるほど……赤シャツだけをこの方向で掘り下げる必然性のようなものを描ききれないと、受賞には至らないってことか。特に『坊っちゃん』を下地にしてるだけに、求められてしまうのかも。
とはいえ野田氏は文末をこう締めている。
結局、この作品はいい役者といい演出家に出会うことによって、作家の誤読の理由が初めて見つかる。そうした可能性を秘めた戯曲だと思います。
わかってんじゃん秀樹
やめなさい
そういうことだよね。だから私たちがこんなに感激してるっていうのは、ホンの素晴らしさはもちろんのこと、それを最大限に生かすいい役者といい演出家に恵まれたということだよね。ホクホク。
あ、あと野田秀樹氏は、
巨人引力などという言葉も使っているが、これが象徴するものも怪しい。
とも書いているので、巨人引力が出てくるのなんで?わからん!と思ってた人たち、安心して!
私としては前述した解釈と、そもそもは漱石ファンであるマキノ氏が坊っちゃんだけでない漱石エッセンスを散りばめたから(他にもタカジャスターゼ*1とか)だと思ってるが、野田秀樹にも明確なことはわかんないんだから、みんな自信もってそれぞれ自由に解釈しようぞ。
芝居の感想に関してはあまり人目を気にしてないんだけど、他の人の意見が読めて嬉しかったから載せてみた。ひとり悶々とするばかりで、まだ感想を言い合えてないというのもあるかもしれない。もう観た方、よかったらお話しましょー。(用途がわからないから何も断言はできないけど、ムービーのカメラが入ってる回はありました。映像化されるといいね。)
最後に。
桐山さんの舞台は『泣くロミオと怒るジュリエット』に続いて二度目で、今回はたくさん観ることができて幸せだった。これからも一作も見逃したくないと思う。という気持ち悪いひとりごとで締める。オタクは気持ち悪いもの。しょうがない。推しという巨人引力が呼ぶままに、ただ堕ちていくだけ。